日々の出来事を書いております。
連絡用なのかもしれない・・。
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ふと、亡くなった祖母のことを思い出したんで忘れない内に書き込んでいく。
祖母の家は遠くて、毎週週末に親父と車で二時間かけて通ってた。
なんで毎週通ってたかは記憶にないんだけど。
たぶん僕が小さい内は姉貴とか兄貴も一緒に行ってたと思うんだけど、僕が小学生になった頃は皆、部活とかで忙しくて、僕だけが親父と一緒に通ってた。
祖母ん家には重度の知的障害の叔母さんがいて、いつも○○姉ちゃん、元気?ってだけ挨拶してた。
近くに親戚とかいとことかもいたんだけど、週末に数時間しかいないような僕が仲良く遊べることもなく、いつも一人で近くの公園で鯉に自分のおやつにと渡されたスナック菓子投げてた記憶がある。
小学校高学年になると、友達と遊ぶ方が楽しくなってきてさ、祖母の家にはあまり行かなくなってた。
『ばあちゃんのこと、きらいになったの?』
っていう電話の声をまだ覚えてる。
部活が忙しいんだよって、苦しい言い訳しちゃったけど、部活なんて全然忙しくなかったんだよね・・・・。
元々個人主義な部活だし、先輩後輩なんてあってなき部活だったから。
そんな頃、祖母が大腸ガンになった。
手遅れで即入院だった。
母が看病で泊まり込みになると、うちの家には親父と兄貴と僕しかいなくて(姉貴達は進学のために他のとこに住んでた。)、料理のできない親父が頑張ってたけど、正直不味かった。焦げたのとか結構あったし。
兄貴はその頃、高校生で、うん、全然戦力外だったから、なんとなく出来た僕が頑張った。
とはいっても、なに作ったか分かんないんだが。
あの頃の記憶っていうか、小学校、中学校の記憶ってあまりないんだよね。
場面、場面を断片的に覚えてる感じ。
人間って忘れる生き物だから、他の人もきっと覚えてないんだと思ってるんだけど、そこらへんどうなんだろうな。
中学校の制服着て葬式に出た記憶があるから、中学校入りたてだったんだと思う、祖母が亡くなった。
久々に遠くのいとこ達も来てて、会わないうちにずいぶん成長したなって思ったのを記憶してる。
小学生の頃の夏休みに祖母ん家に遊びにきてた時、ペルシャ猫も連れてきてたんだが、その猫がやたらと逃げるからニゲっていう名前だったということしか記憶にない。
まぁ、そんなんでユタ(いわゆる霊能者)が、読経はお坊さんがあげるんだけど、なんだったかな・・・魂篭するとかなんだかで協力者が1人欲しいって言われた。
祖母の干支と相性がいいってことで僕が選ばれたんだけど、トイレとかで線香あげて祝詞をあげて、あと数カ所まわって・・・をやった。
今にして思えば、死んだ人の未練とか魂とか、そういったのをこの世に残さないようにするやつだったんだと思う。
で、僕は呼び出す為の囮的なものかな。
故人に可愛がられてて、怖がることもない子ってとこが選ばれた理由だと思う。
てか、見えない、感じないんだから怖がることすら出来ないんだが。
霊的防御力が高いのか知らないが、なにかの折りにユタに世話になると『僕が帰してる』って言われるくらいだし。
むしろ『幽霊とか見えないし空気と同じ』と言ってるDQNで大変申し訳ないと思う。
ばぁちゃん、ばぁちゃんが買ってくれたペンダント、まだ大事に持ってます。
たぶん貝を加工したやつだと思うんだけど、昔のまま青い綺麗なままだよ。
小学生の頃だっけかな、お土産品店で買ったから、もしかして1000円もしれないかもしれないものだけど、お気に入りでよくつけてるよ。
最近さ、母が膀胱ガンで手術したんだ。
気が弱くなったんだろうね、孫つれて遊びに来いってよく言われてる。
でも、遊ぶのがないから嫌だって拒否られるんだよね。
なんかその姿見てて、昔の自分を思いだしたよ。
ごめんな。寂しかったんだよね。
うちの母は元気でどこにでも遊びにいけるけど、ばぁちゃんは障害抱えてるねぇちゃんいたから、どこにも行けなかったんだよね。
ばぁちゃん亡くなってから遺産相続でごたごたになって、いとこ達に会ったのはばぁちゃんの葬式が最後になったよ。
ねぇちゃんも引き取るって、叔母さん達が強引に連れて行ってからその後の音沙汰も分からない。
なんだろうね・・・この歳になってようやくあの頃の現状が理解できたよ。
祖母の家は遠くて、毎週週末に親父と車で二時間かけて通ってた。
なんで毎週通ってたかは記憶にないんだけど。
たぶん僕が小さい内は姉貴とか兄貴も一緒に行ってたと思うんだけど、僕が小学生になった頃は皆、部活とかで忙しくて、僕だけが親父と一緒に通ってた。
祖母ん家には重度の知的障害の叔母さんがいて、いつも○○姉ちゃん、元気?ってだけ挨拶してた。
近くに親戚とかいとことかもいたんだけど、週末に数時間しかいないような僕が仲良く遊べることもなく、いつも一人で近くの公園で鯉に自分のおやつにと渡されたスナック菓子投げてた記憶がある。
小学校高学年になると、友達と遊ぶ方が楽しくなってきてさ、祖母の家にはあまり行かなくなってた。
『ばあちゃんのこと、きらいになったの?』
っていう電話の声をまだ覚えてる。
部活が忙しいんだよって、苦しい言い訳しちゃったけど、部活なんて全然忙しくなかったんだよね・・・・。
元々個人主義な部活だし、先輩後輩なんてあってなき部活だったから。
そんな頃、祖母が大腸ガンになった。
手遅れで即入院だった。
母が看病で泊まり込みになると、うちの家には親父と兄貴と僕しかいなくて(姉貴達は進学のために他のとこに住んでた。)、料理のできない親父が頑張ってたけど、正直不味かった。焦げたのとか結構あったし。
兄貴はその頃、高校生で、うん、全然戦力外だったから、なんとなく出来た僕が頑張った。
とはいっても、なに作ったか分かんないんだが。
あの頃の記憶っていうか、小学校、中学校の記憶ってあまりないんだよね。
場面、場面を断片的に覚えてる感じ。
人間って忘れる生き物だから、他の人もきっと覚えてないんだと思ってるんだけど、そこらへんどうなんだろうな。
中学校の制服着て葬式に出た記憶があるから、中学校入りたてだったんだと思う、祖母が亡くなった。
久々に遠くのいとこ達も来てて、会わないうちにずいぶん成長したなって思ったのを記憶してる。
小学生の頃の夏休みに祖母ん家に遊びにきてた時、ペルシャ猫も連れてきてたんだが、その猫がやたらと逃げるからニゲっていう名前だったということしか記憶にない。
まぁ、そんなんでユタ(いわゆる霊能者)が、読経はお坊さんがあげるんだけど、なんだったかな・・・魂篭するとかなんだかで協力者が1人欲しいって言われた。
祖母の干支と相性がいいってことで僕が選ばれたんだけど、トイレとかで線香あげて祝詞をあげて、あと数カ所まわって・・・をやった。
今にして思えば、死んだ人の未練とか魂とか、そういったのをこの世に残さないようにするやつだったんだと思う。
で、僕は呼び出す為の囮的なものかな。
故人に可愛がられてて、怖がることもない子ってとこが選ばれた理由だと思う。
てか、見えない、感じないんだから怖がることすら出来ないんだが。
霊的防御力が高いのか知らないが、なにかの折りにユタに世話になると『僕が帰してる』って言われるくらいだし。
むしろ『幽霊とか見えないし空気と同じ』と言ってるDQNで大変申し訳ないと思う。
ばぁちゃん、ばぁちゃんが買ってくれたペンダント、まだ大事に持ってます。
たぶん貝を加工したやつだと思うんだけど、昔のまま青い綺麗なままだよ。
小学生の頃だっけかな、お土産品店で買ったから、もしかして1000円もしれないかもしれないものだけど、お気に入りでよくつけてるよ。
最近さ、母が膀胱ガンで手術したんだ。
気が弱くなったんだろうね、孫つれて遊びに来いってよく言われてる。
でも、遊ぶのがないから嫌だって拒否られるんだよね。
なんかその姿見てて、昔の自分を思いだしたよ。
ごめんな。寂しかったんだよね。
うちの母は元気でどこにでも遊びにいけるけど、ばぁちゃんは障害抱えてるねぇちゃんいたから、どこにも行けなかったんだよね。
ばぁちゃん亡くなってから遺産相続でごたごたになって、いとこ達に会ったのはばぁちゃんの葬式が最後になったよ。
ねぇちゃんも引き取るって、叔母さん達が強引に連れて行ってからその後の音沙汰も分からない。
なんだろうね・・・この歳になってようやくあの頃の現状が理解できたよ。
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